2013年3月13日水曜日

『なめらかな社会とその敵』をもっと理解するための10冊。


鈴木健さんの近著『なめらかな社会とその敵』の5刷が決まったようです。
勁草書房の歴史では、浅田彰氏の『構造と力』以来の売れ行きだそうです。

このブログでも「思想の散種」の一貫として書評を書きましたが、そろそろみなさん手にとって読まれた方も多いと思いますので、本書をより深く理解するためにオススメの本を10冊ほどあげてみました。

民主主義、メディア論、認知科学、哲学、など幅広い領域に関わる本書を理解するには、どこかの専門分野を勉強するというよりも、ある方向を目指した「思考の型」を共有しているような本を読むことが理解の鍵のような気がします。

そこで、あくまで個人的なオススメですが、以下に10冊ほど挙げてみたいと思います。
※僕自身の関心領域である生命論・科学史あたりが中心になっています。他にも数学や経済学、あるいは政治思想の領域にも関連する書籍があると思います。それぞれの分野の方にオススメの本をあげてもらうと、より本書を楽しめるのではないかと思います。




1.『現れる存在―脳と身体と世界の再統合』(NTT出版,2012)
アンディ・クラーク 池上 高志 森本 元太郎  


・アメリカの認知科学や心の哲学周辺で活躍する哲学者Andy.Clarkの邦訳書。人工知能やロボティクスの研究を通じて、人間の心が脳だけでなく身体や環境に依存していることを明らかにしていく、この分野の入門にして先端の書。
・本書の第三章『心と世界−移ろう境界』は、鈴木健氏が翻訳を担当している。「心は漏れ出しやすい組織である。絶えず「自然な」境界を抜けだして、臆面もなく身体や世界と混じりあってしまう。」と始まる本章は、鈴木氏の文体と思想の土壌を垣間見ることができる。




2.『動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ』(青土社,2007)
池上 高志 


・複雑系の分野を切り開き続ける物理学者、池上高志氏の研究と思想をまとめた一冊。主にコンピュータシミュレーションの実験と力学系の理論を通じて、構成的に生命と意識を探る必読の一冊。
・鈴木健氏は、本書の著者である池上高志氏の研究室出身である。鈴木氏の理論的バックボーンに複雑系の思想があることも踏まえて、本書は大きな手がかりになると思われる。




3.『オートポイエーシス―生命システムとはなにか』(国文社,1991)
H.R. マトゥラーナ F.J. ヴァレラ, 河本 英夫  


・1970年代初頭に生物学者マトゥラーナ、ヴァレラによって提唱され、その後社会学者ニクラス・ルーマンによって世に知れ渡り、思想界にまで議論が波及した異端の生命論。自己複製や進化を中心とした生命理解ではなく、「境界」の問題を生命理解の中心に置いた。
・『なめらかな社会とその敵』では、本書が提案する「オートポイエーシス理論」をベースに議論が展開されている。「境界とは何か」という問題に対する核心をついた本書は、やや難解ではあるが、ひとつの歴史を作ったと言ってよいほどの隠れた影響力を持つ。




4.『身体化された心―仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』(工作舎,2001)
フランシスコ ヴァレラ エレノア ロッシュ , エヴァン トンプソン , 田中 靖夫  


・『オートポイエーシス』の著者でもあるフランシスコ・ヴァレラの書いた新しい認知科学の方法論を提供する一冊。第三人称的記述と第一人称的な記述を、神経科学と現象学を相互制約的に活用することで架橋しようとする挑戦的な書。また、その方法論と思想的背景に仏教を用いるという極めてラディカルでスリリングな一冊。
・『なめらかな社会とその敵』は、単に社会システムを技術によって更新するだけではなく、そのことによって社会システムを環境とする人間を拡張しようとする試みでもある。本書は人間の経験が生物学的・認知的なレベルでどのように構成されるかを提供し、またそれが仏教的な思想に近づく可能性を示唆する。「なめらかな社会は“仏教哲学のひとつの実装形態”かもしれない」と言う鈴木氏のイメージをリアルにするだろう。




5.『建築する身体―人間を超えていくために』(春秋社,2004)
荒川 修作 マドリン ギンズ Madeline Gins 河本 英夫  


・建築家・芸術家、荒川修作の代表的著作。「人間は死なない」と言い続けた荒川修作は、まさに新しい生命、新しい身体を「建築」しようとした人物であった。本書はほとんどの文章が独自の術語で書かれており、まともに読むのは難しい。しかし、本書に触れつつ、何より実際の建築物である《三鷹天命反転住宅》や《養老天命反転地》に行くことをオススメする。
(荒川修作については、書評第Ⅳ部と、住宅に住んだ際の日記などを参照して頂ければ。)
・建築とは、建物のことではないというのが本書のテーマである。建築とは生命が自分自身を構成する働きのことである。そのインターフェイスが身体であり、衣服であり、建物であり、情報環境であり、社会システムである。『なめらかな社会とその敵』はその意味において「生命にとって建築とは何か」が隠れたテーマであり、本書とはその根底において深くつながっている。




6.『思想としてのパソコン』(NTT出版,1997)
西垣 通 フィリップ ケオー A.M. チューリング ダグラス・C. エンゲルバート テリー ウィノグラード ヴァネヴァー ブッシュ J.C.R. リックライダー テッド ネルソン 

・コンピュータ/WWWの黎明期における創始者たちの設計思想を集めた論文集。冒頭には西垣通氏の解説が収録されている。コンピュータだけで知能を実現するAI(Artificial Intelligence)から、人間の知能を増幅するものとしてのコンピュータ=IA(intelligence amplifier)へ、というテーゼが示されている。
・新しい技術の持つ設計思想がいかに人間や社会を変えていくかという観点から言えば、本書は『なめらかな社会とその敵』ともっとも親和性が高い本かもしれない。本書に収録されたチューリングやブッシュ、エンゲルハートらの著書への影響はとても大きいと思われる。




7.『グーテンベルクの銀河系―活字人間の形成』(みすず書房,1986)
マーシャル マクルーハン森 常治  


・言わずと知れたメデイア論の古典的名著。活版印刷技術が西欧近代の形成に果たした役割の分析を通じて、新たなメデイアの登場が私たちの身体性、そして社会システムを変えてしまうことを明らかにする。アカデミックな批判を受けることもあるが、その批評性と想像力は現在もひときわ目立つ。
・「なめらかな社会」を実現するために、著者は「300年くらいかけてやりましょう。」というメッセージを発しているが、それは15世紀における活版印刷の発明から、市民社会の形成までの歴史も念頭に置いている。新しいメデイアが時間をかけて、身体性と社会を変えてしまうことへのリアリティが本書によって増すはずである。





8.『ised 情報社会の倫理と設計 設計篇』(河出書房新社,2010
東 浩紀 , 濱野 智史  


・思想家、東浩紀氏を中心とした国際大学GLOCOMでの研究会の記録。プログラマーやIT企業経営者などの情報社会の設計者たちと、法学者や社会学者らの情報社会の分析者たちの協働討議。インターネットや情報技術の問題や可能性を先駆的に議論している。合わせて『倫理篇』もオススメ。
・鈴木健氏はこの研究会のサブ司会も担当。「なめらかな社会」についてのプレゼンテーションや、様々な議論が収録されている。「鈴木健の構想は宗教に他ならない。」という法学者の指摘に、「生態環境を根底から書き換える意味で、むしろ生態学的。」と応える鈴木氏など熱い議論を見ることができる。




9.『デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化』(国文社,1989)
モリス・バーマン 柴田 元幸 


・17世紀のヨーロッパで起こった科学革命、あるいはデカルト的哲学によって、人間と自然の関係が決定的に変わってしまった。人間と自然が分離せずに共に生きていた「魔術的世界」が近代科学によって追放されてしまった現在、G.ベイトソンなどに見出される新たな科学的認識論によって世界を「再魔術化」することは可能かを問うた。
・本書との関係は書評第Ⅲ部に詳しく書いたので、そちらを参照してもらいたい。





10.『異邦人』(新潮社,1963)
カミュ 窪田 啓作  


・サルトルによって絶賛され、若干43歳でノーベル賞を受賞したフランスの小説家・劇作家アルベール・カミュの出世作。母を亡くした主人公ムルソーが巻き込まれた不運の事故とその裁判を巡る物語。
・「この複雑な世界を、複雑なまま生きることはできないのだろうか。」と始まる『なめらかな社会とその敵』の最初の扉文にはカミュの文章が掲載されている。まさに、この主人公ムルソーは「複雑な世界を、複雑なまま」生きようとした人物そのものであり、そしてそれが叶わない社会に生きた人間であった。
(本書は小説であるし、直接的に著書に関係するわけではないが、「複雑な世界を、単純化して生きてしまわざるを得ない人間。」のイメージが、この物語の中に実に生々しく描かれているため、オススメしておく。)





以上で、オススメの10冊は終わりである。

ここに挙げた10冊のうち、何冊かは著書の中でも直接言及され参考文献にも載っているが、それ以外のものも、極めて本書と関わりが深いと思われる。
同時に、これらの本は生命論や科学史においてではあるが、現代においてどれも非常に重要な著作たちである。その意味でも、これらの多くの思想の影響を受けながらそれをオリジナルな方法で紡ぎ上げている『なめらかな社会とその敵』は、たしかにこれからの時代にひとつの指針を投げかけている一冊ではないだろうか。

僕が未読であったり、専門外であって著書と関係するものも多い。
とりわけ、カール・シュミット『政治的なものの概念 』、岩井克人『貨幣論』 、カール・ポパー『開かれた社会とその敵 』、あるいはジョン・ロックやクレッグイーガンらの著作は、挙げておいたほうがよいかもしれない。


簡単ではあったが、これらの本が読まれ、より深く著書に迫るきっかけになれば嬉しい。




(追記 : 03/17)
この選書は、2013.4.7〜5.14まで、紀伊國屋書店新宿南店にて、ブックフェアとして書評・解説のリーフレットとともに展示して頂きました。
多くの方に見て頂いたとのことで、みなさまありがとうございました。



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2013年2月4日月曜日

アニッシュ・カプーア展 −揺らぐ知覚と身体−


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韓国ソウルにあるサムスン美術館Leeumで開催されている企画展『Anish Kapoor』に行ってきた。アニッシュ・カプーアの展覧会が東アジアで開催されるのは初ということで楽しみにしていたのだが、期待以上に素晴らしかった。せっかくなのでレポートを書いてみようと思う。

とにかくカプーアの作品は、圧倒的だった。一言で言えば彼の作品は「知覚を不安定化させる装置」であった。見るものの与えられた身体性を奪い、知覚を再構成する。個々の作品は、見る者の中にそれぞれの時間を作り出す。ただそこにモノを置くだけで、こんなにも視覚が戸惑い、聴覚は薄らぎ、自分の立脚する身体が制御されるのかと驚いた。そのことについて、感動と興奮を伝えられればと思う。


Anish Kapoorは現代美術を代表する作家であり、英国を中心に活躍する彫刻家だ。彼のテーマは「nonobject 非物質性」だと言われる。オブジェ(物質)を彫刻するはずの彫刻家が非物質を作り出すとはどういうことだろうか。

作家や作品のコンテクストが重要な意味を持つ現代美術ではカプーアがインド・ムンバイの出身作家であることがしばしば引き合いに出される。例えば、初期の鮮やかな顔料を使った作品《1000の名前》はヒンドゥー教の寺院で見た鮮やかな色の影響があったことや、彼自身が「アートをつくるのではなく、信仰をつくりたい」と語っていたことなどにも由来するのだろう。しかし、この個展を通じて私が感じたのは、彼の持つ世界観がインドのみならず広く東洋的な思想、あるいは仏教的な世界観にも繋がる壮大な背景を持っているということ。そしてそれをコンセプトではなくむしろ知覚や身体を通じて伝えてしまっているということ。そんな実感があった。その意味でも、東アジアでこのカプーア展が開催されたことの意味は大きいように思う。


少し前置きが長くなってしまったが、作品の写真を挙げながら、感想を書いていこうと思う。

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サムスン美術館Leeum
 

ソウルの中心街から地下鉄で10分程度の場所にサムスン美術館は建っている。地元韓国の方はみな「Leeum」と呼んでいたが、このLeeumは有名建築家の作品としても有名だ。現代アートを中心とした海外の作品を多く展示するミュージアム1マリオ・ボッタ、韓国の古美術を中心とした古典藝術を展示するミュージアム2はジャン・ヌーヴェル、また複合するサムスン児童教育文化センターはレム・コールハースによる建築であり、これらの建築もLeeumの見どころの一つになっている。

 

Tall Tree and the Eye,2009

美術館に入ると屋外展示に設置されたオブジェがすぐに目に入る。この作品はカプーアの愛読する詩人リルケの詩集「オルフェウスへのソネットにインスパイアされて制作されたという

写真で見るとなかなか分からないが、鏡面の球が互いに互いを映し合い、見るものの立つ位置によってその表情を様々に変化させる。








一見すると、街や駅前でたまに見るふうつの銀色のオブジェのように思えるが、鏡面の反射の精度がとても高く、映り込む風景は他の風景の反射とは思えないほどリアリティがある。

少し見る場所を変えると、そこに映り込む風景はまるで一変する。単に「<私=観察者>が<モノ=観察対象>を見る」という静的な関係がここではもう破壊されている。私が様々な場所から見ることによって風景が変わり、その風景を覗きこむことで再び映し出される風景が変わる。M.C.エッシャーの《描く手》(1948) のように、見るものと見られるものの間の終わらない循環運動がここにある。「私」は、対象を特権的な位置から眺める超越的な視点ではなく、対象と相互作用する循環プロセスの一部になってしまう。




Vertigo,2012

その手前には、新作の《Vertigo》が並ぶ。この作品も私たちの知覚に与えるインパクトがすごい。身長と同じくらいの鏡は僕たちがもっとも慣れ親しんだ鏡の大きさで、当然その目の前には自分たちが映る。しかし、この鏡の作品の前に立つと、ほんの数センチ動いただけで上下が逆転して写り、自分が何倍の大きさになったり、何分の一の大きさになったりする。
私たちは普段、自分の身体のスケールを基準にこの世界を認知している。 常に身体が私たちの準拠点として一定の認知スケールを提供するからこそ、世界は安定して知覚される。しかし、この作品の前では、その慣れ親しんだ知覚が一気に不安定化させられる。自分の見ている世界、そしてそれを可能にしている身体が心許なくなる。この作品の目の前に立つと、作品がもはや目の間に置かれた「物質」であるというよりは、自分の視覚空間を構成する環境であるような、あるいは視覚そのものを媒介するものであるような、まさに「非物質」性を帯びてくるのである。



Sky Mirror,2009


そして、屋外展示場の一番端には、あの有名な《Sky Mirror》が見える。あいにく、晴れていなかったのが残念だったが、それでもとても美しい。

彼はしばしば「二重性」をテーマにした作家だとも指摘される。「物質/非物質」「可視/不可視」「明/暗」などの二項対立を彫刻の中で同時に扱おうとしているというものだ。この《Sky Mirror》も「天」と「大地」を同居させる試みとして見ることもできる。
しかし、私には彼が試みている二項対立の克服というのはそのような抽象的なものではなく、もっと具体的で知覚そのものをそのように構成するものとして感じ取れた。




韓国は冬場になると気温が−15度になるほどだというので、屋外にはたいてい雪が積もっている。この日は雪こそ降っていなかったが、曇り空でとても寒い日だった。空は全体として陰鬱としていたが、このSky Mirrorには空から光をかき集めてきたように、冷たい空気をまとって静かに立つ姿が本当に美しかった。


さて、館中に入るとさっそく作品が見える。


この入り口のフロアから、上と下にフロアが続いている。上のフロアに続く小さな階段を登るとと、巨大な真っ赤な作品がフロア全体に存在感を出している。



My Red Homeland,2003

「赤い祖国」と題されたそのタイトルが示すように、赤々として広大に空間に広がるこの彫刻はインドの大地を、あるいは人間にとっての大地そのものを思わせるという。カプーアの作品は壁に埋め込まれたり床に穴を作ったりと、展示空間そのものを作品の一部にしてしまうと言われるが、このフロア全体も一種の作品のような雰囲気を醸し出していた。




赤いワックスを使った彼の一連の作品は「自動生成auto-generationシリーズ」と呼ばれている。2007年にイギリスのロイヤル・アカデミー・オブ・アーツで展示された列車で赤いワックスをひいていく《Svayambhはサンスクリット語で「自己生成」を意味する。また、2009年に発表された《Shooting into the Cornerは会場に設置した大砲をその場で壁に撃ち続けるという衝撃的な作品であった。この《My Red Hometown》も、巨大なハンマーが時計の針のようにグルグルとワックスを押し削りながら作品を彫刻していく。

これらの作品では完成された彫刻を展示するのではなく、その場で作品を生成させ、製作過程そのものがいわば作品になっている。《Shooting into the Corner》では、大砲を撃つという「破壊」の行為そのものが、作品を「創造」するという行為になっている。ここに展示されている《My Red Homeland》も、中央に綺麗に整地され「生成」されたワックスのまわりに、その制作過程で捨てられたゴミのように「廃棄」されたワックスが取り囲み、そのどちらも含めて作品を構成している。相反する二項対立を対立させずに、そのどちらも同等に扱おうとするカプーアの「二重性」に対するこだわりがこの作品にもよくあらわれている。



赤いワックスは近くで見ると非常に生々しく、中央の綺麗なワックスとの対比が非常に印象的だった。


Laboratory for a New Model of the Universe,2007

同じフロアの横にはガラスの中に彫刻された作品がある。



これも、非常に美しい。


My Body Your Body,1999

同じフロアの壁に展示されているこの作品は、思わず足が止まるほど空間の質を変えていて衝撃的だった。マットな素材であらゆる音と光を吸収しているような、そして赤の奥にある黒い闇に引き込まれるような、見るものを困惑させる作品だ。なだらかに奥に続く穴はどこに終わりがあるのか分からないような、どの角度から見てもその奥に届かないように見えた。見る者の奥行き知覚を狂わせるような不思議な体験だった。





このフロアを下り、地下の大きな展示室へエスカレーターを下ると、さっそく2012年に制作された最新作《Cave》が迎える。


Cave,2012


人は多く、時間帯によってはとても混雑していたが、地下は広々としていて、静謐なコンクリートがカプーアの作品とよく調和していた。


キャプションは、最初にシンプルな解説があり個々の作品はタイトル情報くらいしかない。少し薄いグレーで壁に直接書かれていて、作品の微妙な色合いを邪魔しないように配慮があってとてもよかったと思う。



To Reflect an Intimate Part of the Red,1981

カプーアの初期の粉末顔料を使った作品である。非常に鮮やかでありながらどこか優しい色彩で、「見る」というよりも「触れる」という感覚を憶えてしまうようだった。




粉末顔料があたりに響く音を吸い込んでしまったような静けさがあった。そのまわりだけ、時間が止まってしまったような。


When I am Pregnant,1992

非常にきれいに壁と同化していて、近くで見てもどこからが壁でどこからが作品なのか分からない。見る角度によって大きくその表情を変える。このタイトルが示すようにカプーアの作品はどれもどこか女性的である。禅の研究者鈴木大拙は「力と法律と義が統御する」父性の絶対性が西洋の根底にあるのに対し、東洋では「無条件の愛でなにもかも包容する」母性こそがその根底にあると言った(『東洋的な見方』)。カプーアの彫刻は他の環境との境界をはっきりと区別しそれ自体で立つ強さよりも、曖昧な空間の中に溶けてあたりを包むような柔らかさがある。





Untitled,1990

この作品は3つ並んでいるのを外から眺めるのではなく、ひとつひとつ「中から」覗きこんで体験する。下の写真のように、学芸員の案内に従ってひとりずつ3つの作品の前を周っていく。
個人的にはこの作品がもっとも刺激的であった。青はあらゆる光を吸収する。かつて色と形の持つ性質を徹底的に実践しながら考えた抽象画家Wassily Kandinskyは「黄色は外へ広がり観察する者に近づき、青色は観察する者から遠ざかり、蝸牛のようにそれ自身の中に吸い込まれる」と言ったが、まさにこの深い青は目の前に立つも者をどこまでも吸い込む。




混雑していて、常に列ができていた。





気づかずに去ってしまいそうな、壁に明けられた小さな作品も。






The Earth,1991

会場の一番奥の床に作られたこの作品は、一見すると穴が空いているのか、薄く盛り上がっているのか分からない。さらに、角度を変えていろいろな場所から覗きこんでも、それが凹みなのか凸なのか分からないのだ。この作品にはカプーアの二重性の思想が非常によく現れているし、その思想がまさに知覚体験として現れるものだった。
仏教の「空(sunya)」は語源的に「空っぽ」という意味だけではなく、それが同時に「充溢している」状態を意味している。相反する意味が同居している状態を言語的に理解することは難しい。なぜなら、言語はその性質からしてそもそも自分の意味の領域とを他の意味との差異によって排他的に獲得するものだからである。だからこそ、仏教における「公案(いわゆる禅問答)」はあえて矛盾し答えの出ない問いを用意することで、矛盾を超えた経験へと導くことを狙っているし、その導きをより実践的に理解するために言語を排した身体修行の坐禅によって最終的に空の悟りを得ようとする。
カプーアのこの作品は、その前に立たされると否応なく矛盾の同居をそれとして感じ取る経験へと導かれる。仏教では自分自身の身体を制御することによって経験を操作する技術の獲得を目指している。カプーアの作品はむしろそのような経験を構成するために、自身の身体を制御するのではなく、身体の外部環境としての「モノ」を設計しているようにさえ感じられた。意図的であるか否か知らず、カプーアの東洋的、あるいは仏教的世界観はこのような新しい経験への導きの中にこそ、その本質あるように思えた。




Yellow,1999

そして、この巨大な作品は圧巻であった。とにかくこの作品が会場全体の雰囲気を決定するように目立っていた。その本来の大きさを超えて、地下の会場全体を包み込むような存在感を持って堂々と光を放つこの作品の前では、ただただ佇むしかなかった。







会場全体はこのように広い空間に作品が並んでいる様子で、自由に人が見て歩けるようになっていた。

私も、何度も同じ作品の前に立ったり、遠くから眺めたり、中に入って声を出してみたり、身体を自由に使いながら楽しむことができた。
このブログのレポート記事では、写真のみならず時に冗長になりながらも多くの言葉を添えた。それは写真だけでは分からない経験の部分を少しでも伝えられればと考えたからだ。

カプーアの作品は、メディア環境が発達しウェブや写真で作品の消費が完結してしまいがちな現代において、「生で体験する」ということの意味が極めて強く残っている作家である。(例えば、写真家のTim Davisは"All art ends up as photographs"と言って極めてcriticalな作品を発表している。)

彼の作品はたしかに写真にも映えるし、彼の名を知らしめたアメリカ合衆国シカゴの《Coud Gate》(2006)はパブリックアートとしても多くのメディアによって紹介されている。しかし、全てのアートがそうであることは言うまでもないのだが、とりわけ彼の作品は生で体験するということの重要性が高い作家であると思う。それは、やはり彼の作品が極めて具体的に私たちの知覚に変容をもたらす作品だからである。この記事を読んで興味を持ってい頂いた方がいたら、ぜひいつか直接体験できる機会を持って欲しいと思う。

そしてぜひ、日本でもいつかカプーアの個展を開催されることを願っている。


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最後に、Anish Kapoorという作家の作品を通じて私の感じたこと、考えたことを、関心領域の知覚・身体論の観点から書いてみたい。残念ながら専門外である美術史に沿った感想は書けないのだが、経験に素直に言葉を当てていけたらと思う。


光とは、わたしたちが目覚めゆくなにかだ。光は私たちにあらかじめ与えられた条件ではない。闇は啓発されたり教育されなくても、沈黙の物語とともに深く私たちに与えられている。しかし、光は耕され、学習されたものなのだ。 
                 -Anish Kapoor(展覧会図録より試訳)


■知覚、ゲーテ、経験盲

光のアーティストといえば、James TurrellOlafur Eliassonが思い出されるが、カプーアのいう光は私たちの知覚に強く関係する。

「眼は光によって光へと形成される」と言ったのはゲーテである。

ゲーテは詩人でありながら、色彩の科学者でもあった。彼は『色彩論』(1810)の中で、「夕映えの中で黒い活字が赤く見える(p.138)」や「日中、雪の色調が黄色味ががっていた(p.151)」など、とにかく物理的な光の波長に関わらず、人間が経験してしまう色彩現象を博物学的に何十何百と集めて記録している。
ゲーテは物理的な光の波長のスペクトル分析によって色彩を定義しようとしたニュートンに徹底的に反論した。ゲーテのこの反論は、ニュートンが光学としての色彩を研究していたのに対し、彼が身体の知覚体験としての色彩を研究していたのだと理解することができる。その根底にある思想は「世界は客観的に存在する外界を写しとるもの」ではなく、「世界は身体の知覚を通して内的に構成されるもの」という信念であったと言っていいだろう。

私たちの知覚は、世界に存在する物理的な現象=モノを純粋に観察するフィルターではなく、世界と相互作用しながらそれを形成していくインターフェイスだと言える。身体性=知覚の構成条件は、自然に与えられたものではなく、常に新たに形成され続けるシステムである。


近年の認知研究はこのゲーテの先見性を指示する。「Embodied Cognition(身体化された認知)」の研究を行うAlva Noeはその著書『知覚の中の行為』(2004)の中で「経験盲」と言われる症例を報告している。生まれつきの盲目患者が手術によって白内障を除去し、物理的には光の刺激が網膜に届いているにもかかわらず、まるで世界を見ることができないという事例である。患者は生まれつき盲目であり、見るという「経験」が欠如しているために世界を見ることができないのである。この症例は、知覚が単なる物理的な刺激の反映ではなく、経験と学習によって獲得されるものであることを示している。世界の知覚は、経験によって獲得された世界像の構成によってもたららされるものであり、常に進行中の形成プロセスそのものなのだ。

カプーアが「光は耕される」と言っているのは、まさにこの形成される知覚のことを示しているように思う。知覚が本来的に常に形成途上のシステムなのだとしたら、彼は作品を作ることによって私たちの知覚の可能性を再構成しようとしているのではないか。



■二重性に込められた思想

カプーアの作品はいずれも「<私>が<モノ>を見る。」という通常の自明な知覚体験を不安定化させる装置として機能している。知覚が不安定化するとはどういうことか。「安定な私」が「安定なモノ」を見るという関係が崩れる。すなわち、「見る主体(subject)」「見られる客体(object)」という関係が生まれる以前の、それらが相互に作用しあうひとつのダイナミックなプロセスの中に強制的に放り込まれるということだ。ここで知覚とは「<私>が<モノ>を観察するプロセス」ではなく、「世界の相互作用の中から<(見る)私>と<(見られる)モノ>が分化していくプロセス」としてイメージすることができる。

その意味で、カプーアの作品でもっとも実践的に脱構築されている二項対立とは「subject/object」ではないだろうか。このレポートでは、時折カプーアの作品が持つ東洋的な響きに触れてきたが、実はこの観点に関してもっともそれが際立つものであると感じた。鈴木大拙は西洋の知性の本質は「分かつこと」にあり、東洋の知性の本質は「分かつ」以前への想像力にあると言った。神が「光あれ」というその手前。花がその蕾を咲かせる前の刹那。その「主客未分」の状態こそが鈴木大拙の見た東洋的な知性であったし、あるいは西田幾多郎が「純粋経験」と呼んだものはここにある。
通常「空の経験」や「純粋経験」などの「主客未分」の経験は、坐禅などの修行を通じた高精度の身体操作技術によって獲得される。誤解を怖れずに言うならば、カプーアの作品のもっとも強力な点は、身体の操作に変わって、身体を包む環境の情報としてのモノを高精度で作り出すことによって、誰でもそのような経験へと導くきっかけを与えている点にあるのではないだろうか。


カプーアの二重性の思想は、西洋的な二項対立への対抗として理解することもできると言った。例えば《Mirror》の「大地/空」や《My Red Homeland》の「破壊/創造」の二重性というのはそのように理解できるのかもしれない。しかし、《Tall Tree and the Eye》や《Vertigo》の作り出す「見るもの/見られるもの」の間の循環運動の生成、あるいは《Untitled,1990》や《The Earth》のもたらす知覚の不安定化、これらはコンセプチュアルなレベルを超えて、きわめて具体的な身体性の再構成に貢献しているように思う。


《Untitled,1990》の青の前に立った時など、通常の知覚のモードでは得られないような領域が作動しているように感じられた。対象の奥行きがつめない。視覚の焦点が合わせられない。声が吸収されて発せられた拠点が分からなくなる。つまり、知覚が不安定化させられるということは、<私>や<対象>の「定点」を特定することができないということなのだ。どこを見ているのか分からない、何を聞いているのか分からない。これらの感覚が同時に襲ってくる。養老孟司氏が「ひとつの感覚からくるものを現象というなら、複数の感覚からくるものをリアリティと言う」と言っていたが、まさにリアリティの変化にさらされる。少なくとも「私がモノを見ている」というリアリティは消え去ってしまう。


■心をつくる環境/主観的実験

カプーアの作品がこのような、このようにして私たちの知覚プロセスに介入できるのは、極めて高い精度でその<色><カタチ><素材>が設計されているからであることは間違いない。
「Extended mind(拡張された心)」と呼ばれる認知研究によれば、脳は自らの認知コストを下げるために、環境の情報をうまく利用し、環境の情報を「足場に(scaffold)」にして、認知プロセスを実行するという。つまり、脳の中だけで認知を完結するのではなく、環境の情報と協働でひとつの認知プロセスを実行させているのだ。

カプーアの作り出した個々の作品は、いわば強制的に私たちの知覚のプロセスに入り込む「外側の脳」と言ってもよい。あるいはそもそも「内/外」という関係性を無効化する装置として見るほうが適切かもしれない。心を作るものは「自分の内側の脳」ではなく、自分の「自分の外側に拡張された心=環境」なのだとしたら、環境を設計することが新しい知覚経験を促し、そこから新しい心をつくることに十分つながりうるのである。


ゲーテは色彩研究において光学的な「客観的実験」と対比し、自らの知覚的な探求を「主観的実験」と呼んだ。
実際に彼は、暗い部屋のドアに3cmほどの小さな穴を開けてそこから射しこむ光の色を白い紙に照らして観察したり、黄昏時にロウソクを燃やしてその陰影と傾く陽の生み出す色を観察したり、と様々な実験を行なっている。
「客観的実験」においては、適切な日光を適切な角度で適切な時間、観察しなければならないし、しかもそれは「つねに望ましい関係をもつとは限らない(p.225)」。他方で「主観的実験」においては、「日中いつでも、どんな部屋の中でも、どちらの方角でも好きな方を向いてそれらを行うことができる(p.225)」。主観的実験においては、すべての現象がたしかに現実に起こる現象であり、すべての条件がデータであり、すべての体験は一回生を持っている。それを全て事細かに記述し続けたゲーテはある意味で認知科学者でもあり、(MITの認知機械研究者Deb Royの研究を思い出す)ライフログ的なデータ科学者の先駆でもあったと言えるかもしれない。

カプーアの作品は、どれもがまるで新しい知覚を導くための認知実験の道具のように思えた。神経科学者F.Varelaは白黒反転したダルメシアンの錯視画像を見せて被験者の脳の活動を調べ、「分かる」という体験を理解しようとしたが、カプーアの作品の前にたった時、私たちの知覚には何が起きているのか。

私にはまさにその瞬間「光が耕され」「眼が光へと形成され」ているのではないかと思えた。赤ちゃんは生まれた時、まずその圧倒的な量の光に困惑する。しかしその夥しい光にさらされることによって赤ちゃんは「見る」という知覚システムを形成していく。カプーアが作り出した新たな光は、一度形成されて既に自明になってしまった私たちの知覚システムを再度揺さぶり、新たな身体性へと導く巨大な実験道具であったのかもしれない。



■後記

優れたモノは、愚鈍な言葉よりも思想を帯びる。

カプーア展に行く前、同じくソウル市内にあるソウル国立博物館に行って「白磁」を見てきた。白磁は韓国の伝統的な陶芸であるが、これは儒教思想の具現化でもあった。儒教思想で重要視された「純粋」や「節制」のコンセプトをモノとして昇華したのが白磁であり、14世紀の李王朝下では帝の御器が白磁に指定されている。思想を語るだけでなく、そこに象徴としてのモノを置くことが人々の理解を促し、その思想を浸透させることに貢献しただろうことは想像に難くない。


この展覧会のテーマは「objects」であった。彫刻をなにげなく「オブジェ」と呼ぶことに日本人は慣れているが、私には「object(客体)」という言葉に込められた意味が何重にも積み重なって響いた。
ここにカプーアの知覚に対する挑戦を読むのは先走りすぎだろうか。


[  写真・文    下西 風澄  ]

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